夜遊び
あらすじ
麗しき公爵令嬢と食人鬼の契約関係が謎を呼び込むミステリシリーズ第一巻。シャンペルレ公爵家の長女ロクテーヌには、社交界はおろか自室の外にさえ姿を見せないという噂があった。しかし公爵家を訪れた使者シェリーは夜中に彼女が出歩く足音を耳にする。シェリーは謎に満ちた令嬢の正体を追うことにしたのだが……。(ワインに一匙)ほか、二編を収録。
イベント情報
5/16第32回文フリ東京 カー25
サークル名:こむぎ文庫
作者:早蕨薫
試し読み
『ワインに一匙』冒頭
女中アンジェが公爵令嬢付きを命じられたのは、元々その役目を担っていた女中が休暇を取ったからだった。ただでさえご令嬢の身の回りの世話なんて経験したことがないのに、令嬢ロクテーヌは気難しく、女中は一人しか認めないという。敬遠する女中たちの中で白羽の矢が立ったのがアンジェである。身に余る大役は純粋に恐怖でしかなかったが、専任の女中の休暇が明けるまでの期間限定ということで精一杯頑張ることにする。その代わりにこの期間中、多少のミスは見逃すと侍従長に保証してもらった。全力で取り組まねば名門シャンペルレ家の女中の名折れというものだ。
本来であれば名誉ある大任があたかも罰のように扱われたのには理由がある。ロクテーヌは変わり者の令嬢で、社交界はおろか自室の外にさえ姿を見せないのだ。使用人たちのほとんどはこの不気味な令嬢を見たことがない。日当たりの悪い北側の部屋を自ら選び、鍵をかけて人払いをしているのだから、使用人たちの間で不名誉な噂がまことしやかに囁かれるのも仕方のないことだった。
曰く、自室を離れ人目を避けているのは美しい妹と対照的な容姿をしているから、だとか何とか。
アンジェはバルコニーで寛ぐ主をまじまじと見つめた。日当たりの悪いバルコニーを囲い込むようにして木々が揺れている。昼中の日光が遮られた結果、快適な木陰を作り出すのだということをアンジェは初めて知った。当の令嬢ロクテーヌは読書に耽っており、アンジェの不躾な視線を気にする様子もない。
綺麗に結い上げられた金の髪から覗く碧の瞳。気品漂う手足はすらりと伸びて、透き通るように白い指先が本をめくる。同じ女性であるアンジェも魅了されてしまうほど、ロクテーヌ=シャンペルレは美しかった。
根拠のない噂なんて信じるものではない。騙された。これはとんだ詐欺だ。アンジェはロクテーヌ付きの女中ソミュールに心の中で憤慨した。主の不名誉な噂をソミュールが否定していれば、そしてこれほど美しい素敵なご令嬢であると知っていれば、アンジェはロクテーヌの側で仕事ができるように前々から希望を出せたものを――と言っても、他の使用人に教えてやるつもりはない。折角の素晴らしい役職なのに倍率が上がってしまったら損だ。
それにしても美しい人だ。いつ誰が一目で恋に落ちたって仕方ないような整った顔立ちをしている。表情は理知的だが体格は華奢だ。手元の分厚い本は外国製でアンジェには詩集なのか歴史書なのかもわからない。それから、それから、睫毛の一本一本が繊細で――
「アンジェ」
何ということだ。声まで透き通っている。
「アンジェ」
「っふぁい⁈」
うっとり見惚れていたアンジェの意識は一気に覚醒した。さっそくの粗相に肝を冷やして体が上手く動かせなくなる。宝石のような碧の瞳に見つめられては堪らない。あっという間に頬が紅潮し、額が汗ばんだ。
ふ、とロクテーヌは口元を緩めた。
「……そんなに緊張しなくても言いつけたりしませんよ」
アンジェが余程滑稽で呆れただけかもしれないが、その微笑みにアンジェの心臓が跳ね上がる。
「紅茶を用意していただきたいのですが」
「はい!かしこまりました!」
勢いよく返答してから徐々に顔を曇らせた。目が左右に泳ぐ。
アンジェは特定の主人付きになった経験がない。すなわち主人に紅茶を用意したこともなかった。勿論、実生活を含めれば紅茶を入れたことくらいあるが、家族からも同僚からも茶葉を取り上げられたお粗末な腕前である。
「茶っ、茶葉はどうしましょうか」
声が上擦ったがすぐに持ち直す。動揺を押さえこんで張り付けた笑顔は完璧な女中のはずだ。
「そうですね……アンジェの一番好きな茶葉を」
「すきな……ちゃば……」
「一緒に何か甘いものもお願いします」
駄目だ誤魔化せない。アンジェの心はあっという間に罪悪感でいっぱいになり、くしゃりと顔を歪めた。
「……あの」
「何ですか、アンジェ」
「じ、実は私の紅茶はあまり評判がよくなくてですね」
かなり、と言うべきところ、アンジェは見栄を張った気でいたが態度で筒抜けだった。そわそわと手を組んで離してを繰り返している。厨房の人間に手伝いを頼みたいところだが今日は誰もが忙しい。そもそもアンジェが果たすべき仕事である。
「それで、しかも、ロクテーヌ様を大変お待たせするのではないかと……」
「あら、暇つぶしは得意ですよ」
ロクテーヌは手元の本を指さした。いつも本ばかり読んでいるという噂の方は真実だったらしい。それに、とロクテーヌは続ける。
「一生懸命いれてくれた紅茶は美味しいものですから」
「あ……ありがとうございます!」
勢いよく体を直角に折り曲げる。アンジェは名誉ある任務を何としても達成してみせようとすぐさま厨房に向かった。なんて素晴らしい令嬢なのだろうかと心が躍る。美しいだけでなく、聡明なだけでなく、心優しい方だなんて、向かうところ敵なしだ。
アンジェが退室した後のバルコニーで、ロクテーヌは本を閉じた。青空を遮る木の枝が作る心地よい陰の下、まばたきを一度して己の失敗を反省する。考えていることがすべて顔に出るような女中だったので油断した。初対面の、しかもまだ名乗っていない女中を、名前で呼ぶべきではなかった。幸い違和感を抱いてはいなかったようだが、反省点には違いない。
「さて」
ロクテーヌは顔を上げた。たった一人のバルコニーで空中に向かって声をかける。
「フィード、そこにいますね」
強い風がガラス扉のカーテンを巻き上げ、木を揺らした。木の葉が騒々しく、ロクテーヌの形の良い眉が不愉快そうに寄せられる。土煙を運んでくるよりはましだがもう少し静かに出来ないものだろうかと男への不満を露わにしたのだった。
バルコニーからガラス扉を抜けた先、部屋の中央に男が立っていた。公爵家の洗練された調度品の中で男の粗野な服装が浮いている。ろくに手入れをしていない髪では折角の優れた体格も台無しだ。フィードと呼ばれたその男は雑に髪をかきあげて、愉快そうに目を細める。
「見たことない顔だったな。ソミュールはクビにしたのか?」
「ソミュールは休暇中です……仕方ないでしょう?」
侵入者に声をあげることもなく、ロクテーヌは腕を組みガラス扉に体重を預けた。
「ちなみに紅茶をいれるのが苦手だそうで」
「致命的だな」
「可愛らしいじゃありませんか」
フィードからは生返事が返ってくる。新しい女中には興味がないようで、話半分に机の上に手を伸ばしている。が、残念ながら軽食が見当たらないことを悟ると、行先を失った手のひらを頭の後ろで組んだ。
「フィード、そういうわけでしばらくアンジェが出入りしますからくれぐれも……」
「分かってる。見られるな、だろ」
軽い調子で本当に分かっているのか怪しい返事をする。気安い態度は仮にも公爵家の令嬢に向けるものではなかったが、叱る者はいない。
「そんなヘマしねえよ」
「……まあ、いいでしょう」
ロクテーヌは険しい表情で息を吐いた。未婚の令嬢が若い男の侵入を許しているなんて醜聞もいいところだ。それを除いたとしてもあってはならない存在である。秘密は秘密のまま腹に抱えて墓へ行きたい。
遠くに蹄の硬質な音が聞こえた。打楽器のように規則正しいリズムで、徐々にこのルデジエール城に近付いている。事前の連絡より早いので使用人たちも慌てているだろう。
「なんだ、来客か?」
珍しくもない馬車の音に珍しく反応したロクテーヌを興味深そうに見つめる。そして今気が付いたかのように、アンジェが編み上げた髪から磨き上げられた靴まで目を滑らせた。胸元と手首で装飾品が揺れており、金細工の小花がついた髪飾りが煌びやかだ。
「……そういえば服もいつもと違うな」
「文句でもあるんですか」
「ないけど」
虫の居所が悪いのか、些細な一言にも厳しい視線を飛ばす。どうせ女の服装なんて分からないのだから黙っていればいいのだ。一人では着られない深い赤のドレスが、今は重苦しく感じられる。
「客なんていつもみたいに無視すればいいだろ」
「王宮からの客でなければ私だってそうしますよ」
「王っ……」
「ふうん、王がどんな身分なのかくらいは知っているようですね。てっきり知らないのかと」
馬鹿にしやがって、とフィードの目が言っていたが見なかったことにする。
公爵令嬢ロクテーヌ=シャンペルレは社交界への招待もすべて断り部屋から出ない変わり者だが、例外というものはある。たとえ相手が王族本人ではなくその使者であったとしても、王家は公爵家より上の立場だ。一令嬢でありながら無視だなんてあり得ない。
馬車の音はいよいよ大きくなってきた。使者様のご到着だ。
「そろそろ行かなければ……」
ロクテーヌは溜め息をついて心底嫌そうに呟いた。せめてアンジェの紅茶を待つまでの丁度いい時間つぶしになることを祈って。
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